思考停止無視。

ちょっとだけでも考えてみる。

タナトフォビア(死恐怖症)と向き合うこと。

あけましておめでとうございます。
新年早々こんな話題はどうなのかと思いますが、
私の持つ精神的な病(というより傾向)についてお話します。
自分では病気とは思っていませんし、ある種の感性であったり、人生観や死生観のような特性、考え、理解に近いものなのですが、
しっかり精神疾患として定義されているようなので、その言葉を借りた方がとてもわかり易いです。

私は物心がついたときからタナトフォビア(死恐怖症)に悩まされてきました。
どういったものか話すと、単純にいうと死ぬのが怖いんです。
そりゃ、みんな死ぬのは怖いよ!それで病気ならみんな病気だよ!と笑われてしまうかもしれませんが、
それを笑い飛ばしてしまえ無いほどに怖いんです。
だからこそ、タナトフォビアという言葉を知るまでは誰もが死に対して恐れ、それをひた隠して生きているのだと思いました。
現代の日本社会では、死は非日常的な出来事として隠蔽されている気がします。
誰にも等しく訪れるもので、空気や水のようにありふれたものであるのに、病院以外で誰かが死ぬとちょっとしたニュースになるくらいに。
そして、他者の死に関して深く語ることは不謹慎であるとして、どこかタブー視されているような気がします。
だからこそ、死に関して考える機会が剥奪されているのかもしれません。だから、そこまで深く恐れずにいられるのかもしれません。

私は、死が怖いのです。
夜、布団の中で、目が覚めないことを想像し、恐怖するのです。
この体が朽ちてしまって、私の精神は、意識は、自我は、どこへ行ってしまうのだろうと。
消滅してしまうことに対する恐怖から、継続する可能性を必死に想像するのです。
仏教では輪廻転生の考え方があります。私ももしかすると過去の誰かの生まれかわりなのかもしれません。
でも、それだと、前世の自分が持っていた記憶や思想はどこに行ったのだろうと考えるのです。
つまり、例え転生し生まれ変わったとしても、今の私が持つ意識は消滅していまいます。
では、幽霊としてこの世界に存在し続けるのか、天国や地獄のような死後の世界が存在するのか、
それとも私が生きているうちに不老不死の(もしくは自我を永久に存続させる手法が)生まれるのか、
ただひたすらに考え、そして永劫の時間に恐怖を覚えるのです。
想像力が豊かであるからか、それともそれだけ長い時間考え続けていたからか、人間が絶滅した後、
地球や宇宙が消滅したあとはどうなるのだろうと黙々と考えてしまうのです。
死ぬのも怖いけれど、存在し続けることもまた恐怖なのです。
目の前が真っ暗な道も怖いけれど、果の見えぬ地平線も怖いのです。

死の恐怖は常に付きまとい、夜中に何度も吐き気を催したり、情緒不安定になることもありました。

私は、死が怖いのです。

それは万人に対して共通の恐怖だと認識していました。
ですが、やはり日常的な恐怖として常にいだき続けている人間は少数のようだと、いつだったか、ふと気づいたのです。

ですが、インターネットで調べると身の回りにはいなくとも、この世界には同じような恐れを抱いている人々が他にもいるのだと知ることができました。
Twitterでタナトフォビアの話題をつぶやくと、知らない人からの反応も多々ありました。

私は、本当に些細なことがきっかけで、死に対する恐怖はかなり軽減されました。
しかし、これは私にとって偶然有効であっただけで、特効薬でもなんでもないので、あえて語りはしませんが。

さらにその上で、昨年の熊本地震で被災して感じることがありました。

あの時、死はすぐ隣にいました。
水も食べ物もない、周りの建物は崩れ落ち、まるで世紀末のような様相でした。
あの日、あの夜の街に満ち満ちた絶望と恐怖は、そんな時に限って、私に触れてくることはありませんでした。
震災における死者は他の大規模な災害と比較すると少なかったと思います。不謹慎ですが事実です。
しかし、それでも死の可能性というのは普段の何倍も高かったのです。
本震直後、まだ余震の続く中(今もなお続いていますが)、原付で街を駆け回りました。
暗闇の中で立ちすくみ、もしくはしゃがみ込み震える人々が大勢いました。
あの時の私は非常に高揚した気分で、そこからの数日間はこれまでの人生でもっとも生きている実感のある日々でした。

本当に死が間近にあるとき、私は恐怖では無く、興奮を覚えたのです。

変態かもしれません。
でも、そこで思い当たったのは、私が恐れているのは死では無いのかもしれないということです。

メメント・モリという言葉があります。
「死を思え」という意味らしいです。余談ですが同名の写真集もおすすめです。
死があるからこそ生がある。そこに死があることを忘れずにいればこそ、生を強く意識できる。
私が死を恐れるのは、日常の中であまりにも生が希薄であったからなのかもしれません。
生をより濃く意識するために、死をより濃く意識していたのかもしれません。
だからこそ、これは本当に死ぬかもしれないといった場面で、強烈な生を感じたのです。

私の住む熊本市内はかなり震災以前の状態に近づいています。
多くの人が震災前と変わらない感覚で生活できていると感じています。
だからかもしれませんが、昨夜、ふと発作のように眠りながら死が怖くなりました。
これはもしかすると、しっかり生きろ、漫然たるな。と自己暗示をかけているのかもしれません。

中々手強いタナトフォビアですが、きっと本当に生命を燃やし尽くすまでは、長い付き合いになると思います。
これは私の大切な死生観であり、考え方であり、生の実感でもあります。
決して病だからと自分が異常なのだと思うのでは無く、向き合って行きたいな、と思う所存です。